JR京都線・神戸線・琵琶湖線ダイヤ変遷2

2.JR西日本発足1987年4月1日~1993年

221系新快速

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国鉄最後のダイヤ改正で、眠れる獅子がいよいよ起きた。これにより並行私鉄に影響を与え始めたが、これはほんの序章であり、国鉄=JR西日本の本当の反撃は、JR発足後の1989年から始まったと言える。この年はJR西日本にとってはエポックメイキングになった年の一つに数えられる。先述したように以後のJR西日本の車両の祖となる221系が登場したのである。221系は国鉄=JRグループで2番目の3扉転換クロスシート車で、前年に登場した片開き3扉でデッキ有りの721系に対して、両開きデッキなし車両では初めての3扉転換クロスシート車となった。性能的には国鉄末期に造られた211系がベースになっており、当時私鉄各社で採用され始めていたVVVFインバータは採用せず手堅いところで済ませた感がある。221系は当初は経年劣化が激しい快速に使用していた113系を置き換える目的で投入されていた。しかし、明るく居住性に優れた車内が好評を博し、設計最高速度160km/hの高性能を活かす意味もあり新快速を中心に投入されていくことになった。

新快速は221系登場前の1988年3月13日のダイヤ改正で夕方ラッシュ時の運転を開始し、続く1989年3月11日のダイヤ改正では朝ラッシュ時にも運転を拡大していき、深夜時間帯の運転も拡大されていった。1989年の改正では彦根発着だった新快速が米原まで延伸された。今では新快速は当たり前のように米原まで運転されているが、1989年以前は彦根までの運転だった。ダイヤ改正時点では221系の新快速の運用はなかったが、4月以降221系も新快速運用に入るようになり、夏以降も増備が続いていった。

1990年3月10日ダイヤ改正では、新快速の115km/h運転が開始された。115km/hという中途半端な数字は117系の最高速度で、221系使用列車は最高速度120km/hで運転された。221系増備は続き、運用の変更により快速運用を減らして新快速中心の運用に置き換わった。新快速運用のうち40%程度が221系となった。これにより117系の一部が宝塚線に転出し、宝塚線快速のテコ入れが行われた。当時近鉄名阪特急の救世主として現れた21000系アーバンライナーが、アーバン効果と言われるぐらい利用者を増やしていた。221系もそれと同じぐらいの効果を発揮して、以後新快速の利用者をどんどん増やしていくことになった。ちなみにJR西日本は近畿圏でアーバンネットワークという言葉を定着させているが、当時その中核となっていた221系の愛称名はアーバンライナーではなく、アメニティーライナーと名付けられていた。初代新快速車両の153系はブルーライナー、117系はシティーライナーの愛称が付けられ、ファンを中心に親しまれていた。しかし、221系の愛称のアメニティーライナーは、車両の好評ぶりとは裏腹に全く誰も口にしないぐらい定着しなかった。そのためか223系からは愛称が付かなくなった。

1990年3月10日ダイヤ改正では、新快速はデータイムに限り高槻・芦屋へ停車するようになった。新大阪を除く京阪神の中間駅で初めて新快速が停車することになった。両駅への新快速停車は、並行私鉄により一層大きなインパクトを与えた。高槻は乗降客が10万を超える押しも押されぬ中間駅の雄で、阪急京都線高槻市と古くから切磋琢磨して利用者を増やしてきていた。元々大阪までの所要時分が短く、運賃でも電車特定区間が採用されていたため、国鉄時代でも阪急とがっぷり四つあるいは国鉄がやや優勢という形で国鉄高槻の利用者は多かった。JRになって新快速が停車し、運賃を据え置きし続けたJRに対し、阪急が度重なる値上げを行ったこともあり、高槻でのJR優位は決定的なものとなっていった。かたや芦屋は乗降客数こそ高槻ほどの規模はないものの、普通と緩急接続を図ることにより、摂津本山、住吉、六甲道などの駅からも新快速が利用できるようになり、阪神芦屋、阪急芦屋川のみならず阪急岡本、六甲ライナーの利用者の取り込みで競合する阪神魚崎、阪急六甲に影響を与えるようになった。なお、住吉には本改正から快速が終日停車になったので、15分サイクルに新快速+普通と快速が利用できるようになり、快速急行が12分毎に運転される阪神よりも便利になった。朝夕ラッシュ時に快速急行の運転がない阪神に対し、JRは快速を終日住吉に停車させたため、六甲ライナーの利用者を取り込むことに成功した。
1990年3月改正時点での新快速の所要時分は以下の通りだ。大阪~姫路間下り61分、大阪~米原間84分。データイムの運転区間は米原~姫路、草津~姫路、近江舞子~姫路で、米原~姫路間は毎時2本運転されていた。躍進を続けるJRに対して、並行私鉄は先述したようなダイヤ改正を行うにとどまり、とりあえずは様子見という状態が長らく続く。その間にもJRは躍進を続けていくことになった。

1990年は春のダイヤ改正以降も221系の増備が続き、6両編成が大量に増備され、4両編成の6両編成化も実施された。221系は新快速運用はもちろん快速運用にも進出していく。1991年3月16日のダイヤ改正では、ついにデータイム以降の新快速全てが221系で統一されることになった。同改正で117系は新快速から事実上撤退したと言っても過言ではない。117系の新快速在位は11年となり、並行私鉄特急では考えられない短期間での置き換えとなった。規模を活かした車両の転配は、次世代の223系投入時にも行われ、221系の新快速在位も極めて短い期間に終わった。1991年3月改正では、データイム以降の新快速が221系に統一されたこともあり、新快速の最高速度が120km/hに統一されることになった。これによるスピードアップはなかったが、夕方ラッシュ時芦屋通過となる新快速は大阪~三ノ宮間の所要時分が19分となり、阪神間で初めて20分を割る所要時分の列車が誕生した。 なお、1991年3月改正で新快速運用からほとんどが撤退した117系は登場時の6両編成から8両編成と4両編成に組み替えられ、8両編成は本線の快速、4両編成は新たに奈良線に新設された快速に投入された。221系投入→117系他線転出、快速設定というアーバンネットワーク拡大を構築していったのもこの時期であった。

1991年9月14日には、北陸本線米原~長浜間の直流電化が完成し、米原行きの新快速が延伸直通するようになった。221系は1991年にも増備が続けられ、快速運用も増えていった。1991年秋以降新快速の爆発的な旅客増に対応する為、221系新快速の8連化が着手された。新快速の8連化はハイペースで進められ、1992年3月14日ダイヤ改正で完了した。ここで漸く阪急特急と同じ8両編成になったということで、新快速が名実ともに阪急特急と肩を並べたと言える。

1992年3月14日のダイヤ改正では、新大阪~大阪間で終日外側線を走っていた新快速をデータイム以降内側線を走らせるようになった。これにより新大阪駅で新快速・快速・普通が同一ホームで発着できるようになり、新大阪~大阪間のフィーダー輸送がより一層便利になった。但し、この処置については、大阪駅での新快速への旅客集中や異常時のダイヤの乱れが内外両線へ波及していくなど後々に禍根を残すことになる。新快速が躍進を続けていき、私鉄特急と名実ともに肩を並べるようになったが、それに対する並行私鉄の対抗策はほとんどないに等しい状況だった。いずれの会社も1980年代後半に対JRで組んだダイヤのままで、JRの現状に必ずしも一致しない対抗ダイヤとなっていた。この時期手を拱いていたことが後々に禍根を残すことになることは言うまでもない。この後起こる阪神淡路大震災による大損害、それ以降の関西の経済力低下、国内全体における不況、少子高齢化などの影響を諸に受けて、JR対抗どころか、旅客確保のためのダイヤ改正を繰り返し行うことになる。会社によってはバブルの後遺症などもあり、鉄道に投資が進まぬ状況もあったと思われるが、この時期に何もしなかったことが私鉄各社にとっては失策だったと言えるのではなかろうか。逆にJRはこの時期頑張ったお釣りで逆境を乗り切って行った(少々やり過ぎて罰が当たってしまったこともあったが)。

1993年3月18日のダイヤ改正では休日朝の新快速の高槻停車が実施された。これにより朝の新快速運転時間帯の快速は、高槻~京都間で各駅に停車するようになった。前年度の新快速8連化に伴い、6両編成が大量に8両と4両に組み替えられ編成本数が減少したため、この時期221系による快速の運用が減少している。
この間並行私鉄では、阪急京都線が1993年2月21日に高槻市、茨木市付近での高架工事完了に伴うダイヤ改正が行われた。特急や急行のスピードアップが行われ、特急の梅田~河原町間の所要時分は39分になった。スピードアップと言っても元に戻っただけで、戻ったというよりもむしろ以前より遅くなっていた。急行の待避駅の変更などで急行のスピードアップが図られていたが、特急、急行ともに停車駅の変更はなく、特急は相変わらず京阪間ノンストップのままだった。

  

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