京阪本線のデータイムダイヤは長らく15分ヘッドで運転されていた。1995年6月19日ダイヤ改正時点で京阪間ノンストップの特急を中心に、主要駅に停車する急行、それを補完する準急、本線通し運転の普通と淀屋橋~萱島間、宇治~三条間の普通が運転されていた。大阪側では萱島まで最大20本の運転で、樟葉までも16本の運転となっていた。京都方でも15分毎の普通を補完する宇治線直通の普通が15分毎の運転となっていたので、毎時16本が運転されていた。特急の停車駅は北浜・天満橋・京橋・七条・四条・三条で伝統の京阪間ノンストップ運転を維持していた。1992年1月30日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時の下り特急を中書島に停車させた。それまで完全に終日京阪間ノンストップを維持していた京阪特急が初めて中間駅に停車することになった。この平日朝ラッシュ時の中書島への特急停車は、JR奈良線の改善に苦しめられていた宇治線の救済も含まれていた。平日朝ラッシュ時には、初めて中間駅に特急を停めるようになったが、データイムは引き続きノンストップ運転を行っており、中間駅は急行がフォローするダイヤになっていた。特急の淀屋橋~出町柳間の所要時分は48分で表定速度は64.5km/hだった。京橋~七条間のノンストップ区間では34分となっており表定速度は80km/hに迫る77.6km/hだった。京阪間を並行して走るJRの新快速や阪急特急に比べると物足りない数字と言えるが、2社に比べて線路条件が良くない京阪としてはよく走っていた数字と言える。この当時はJRの新快速は途中高槻に停まるようになっていたが、阪急京都線特急は十三から大宮までノンストップとなっており、京阪特急同様京阪間ノンストップ運転を維持していた。しかし、京阪特急が15分毎の運転を行っているのに対して、阪急京都線特急は20分毎の運転となっており、京阪間直通輸送でJRの攻勢の影響を諸に受けている感があった。その後、阪急特急の京阪間ノンストップ運転は1997年3月2日のダイヤ改正で終止符を打つことになる。阪急の場合はJRと中間駅でも競合しているため、早々と15分ヘッドから20分ヘッドへの移行を行い、特急の20分毎化の代わりに急行を10分毎にして中間駅からの利便性を向上させていた。これに対して京阪は中間駅ではJRとの競合はほとんどなく、あるとしてもJRの本線から外れたJR学研都市線やJR奈良線といった支線であり、直接的な競合と言えるものでもなかったので、15分ヘッドのダイヤを維持し続けていた。しかし、中間駅では急行と準急が15分ヘッドで運転されているとは言え、急行は枚方市、樟葉といった大阪府内の主要駅のほかに、中書島、丹波橋など京都市内の主要駅から大阪方面への輸送も担っていたため、枚方市を過ぎて、香里園、寝屋川市と停まっていくうちにどんどん混雑が増し、データイムの時間帯でも混雑している電車が多かった。また、以前は通過していた守口市や枚方公園への停車時間帯も拡大され、京阪の急行はよく停まるということは鉄道ファンのみならず京阪利用者ならば誰もが口にするほど有名だった。当時のファンの間では、データイムに京阪特急が中間駅に停まるという概念はほとんどなく、急行から停車駅を減らした快速急行の設定を待望する考えが多かった。ただ、快速急行を設定するにもダイヤが一杯で新たにスジを引くわけにもいかず、かといって現行の急行から停車駅を削減した快速急行を設定するとそれまで急行停車駅だった駅が割を食って不便になるためなかなか妙案と言えるものは出なかった。この当時の15分ヘッドのダイヤは中間駅では遅いという不満はあるものの、運転本数では15分ヘッドの急行とそれをフォローする準急があるので一定の満足感はあった。京阪としても下手に快速急行を設定するよりも現状を維持した方が利便性を損ねないということで長らく15分ヘッドの運転を続けていった。
1997年3月22日のダイヤ改正では、平日朝ラッシュ時下りの特急6本が枚方市に停車するようになった。大阪府内では初めて中間駅に停車するというこれまた画期的な出来事であった。宇治線連絡があるとはいえ、駅自体の乗降客はそれほど多くない中書島と違い、駅自体の乗降客が非常に多く交野線連絡まである枚方市への特急停車は2扉転換クロスシートの8000系・3000系では非常に無理があるということで、最混雑時間帯に運転される4本については、3扉セミクロスシートの9000系が製造され、これが充当された。同年3月2日には、先立って阪急京都線がダイヤ改正を行い、特急が終日高槻市に停車するようになった。また、JRでも3月8日のダイヤ改正で、新快速が高槻へ終日停車を実施した。並行各社は終日規模で特急又は新快速を中間駅に停めるようになっていたが、この当時の京阪はまだまだ我が道を行っており、平日朝ラッシュ時下りの限られた列車のみ中書島、枚方市に特急を停めるということに留まっていた。なお、同年には京橋と尼崎を結ぶJR東西線が開業しており、朝ラッシュ時の枚方市への特急停車はJR東西線へ直通するJR学研都市線への対抗策と言える。もっともこの対抗策の甲斐もなく、交野線を中心に利用者がJRに奪われ、2003年9月6日のダイヤ改正では、交野線直通のK特急おりひめと準急ひこぼしの設定を行っている。1997年3月22日改正では、データイムダイヤには特に変化はなく、平日朝ラッシュ時の特急用に造られた9000系が、データイム以降は急行や準急で運用されるようになり、中間駅利用者でも特急並み車両に乗れるようになった。なお、9000系のシートは、ラッシュ時に対応するため固定クロスシートとなっており、8000系特急並みの居住性を提供するというような代物ではなかった。
2000年7月1日ダイヤ改正での特急の所要時分は、淀屋橋~出町柳間が上り50分、下り51分となっていた。それまでの48分から2~3分延伸した。2駅停車駅が増加したので、その分がそのまま所要時分に跳ね返ってきている感じだ。それまでノンストップだった京橋~七条間では、上り36分、下り37分となっており、2駅停車分遅くなった。急行の所要時分は改正前と変わらず67分で、本改正からそれまで68分だった下りも67分となった。急行の特急待避は従来樟葉で行われていたが、本改正から丹波橋になり、特急の丹波橋停車により緩急接続が行われるようになった。15分ヘッドのダイヤは、そのまま継続されており、ほぼ1997年3月改正時のダイヤを引き継いでいたが、本改正では京都方で運転されていた宇治線直通の普通がなくなり、中書島~三条間の区間運転の普通が運転されるようになった。特急の中書島停車により実質的に宇治線から京都方面への直通電車が意味をなさなくなったということだろう。
なお、淀川対岸を走るJR京都線では2000年3月11日のダイヤ改正で新快速を全て223系に統一して、全面的に130km/h運転を行い、京阪間の所要時分を29分から27分に短縮した。この改正では京阪8000系と同年代の221系が新快速から撤退しており、この車両を使って翌年からJR奈良線にてみやこ路快速を30分毎に設定した。京阪間直行輸送のみならず、京阪宇治線に与える脅威も以前にも増すようになった。特急の中書島、丹波橋への停車はこのような情勢を受けてのものと思われ、阪急同様実質的に京阪間直行輸送だけでは立ち行かなくなるばかりか、中間駅にまでJRの脅威が侵食してきたということなのだろう。阪急京都線はJRに対してほぼ無策のまま2001年3月24日のダイヤ大改正を迎えるが、京阪も京阪間直行輸送はともかく、JR奈良線、JR学研都市線への対抗策としては決定打を打ち出せないまま2003年9月6日のダイヤ大改正を迎えることになる。