5.アーバンネットワークビックアップ計画
1999年度にはアーバンネットワークビックアップ計画として新快速の130km/h運転化などの計画が推進されていった。第1弾として、朝ラッシュ時に新快速の130km/h運転を行うため、223系2000・3000番台8連3本、4連2本を1998年度末に投入した。223系2000・3000番台車は、1000番台のコストダウンタイプの車両で、外装、内装ともに1000番台とは若干異なる車両となった。見た目は1000番台とそれほど変わらないが、窓の開閉が下段下降式から内側に斜め方向に折れるタイプに変わったこと、熱線吸収ガラスの採用によりカーテンを省略したこと、窓側座席の肘掛けを省略したことなどが変更されている。1999年5月10日のダイヤ改正までにさらに48両増備して、同改正で平日朝ラッシュ時の新快速は草津~西明石間にて130km/h運転を開始した。これにより新快速は221系から223系への置き換えが推進されていき、さらにその玉突きで快速に使用されていた113系が淘汰されていった。223系2000番台・3000番台は2000年春までにさらに172両が大量投入され、221系新快速を全て置き換え、新快速の終日130km/h運転化を達成することになった。
これまでJR西日本はアーバンネットワーク、とりわけその中でも収益性が高い京阪神を中心とするJR琵琶湖線・京都線・神戸線に力を注いできた。発足からの動きを見ると並行する私鉄からいかに利用者を転移させるかというところから始まり、高品質のサービスを提供する私鉄を見習いながら、国鉄としては珍しい正の遺産となっていた草津~西明石間の複々線を活用してスピードアップなどに取り組んできた。私鉄のレベルに追いつけというところまでは投資を惜しまず最大限のサービスを提供してきたように思う。しかし、阪神淡路大震災を機にJRと私鉄の関係に逆転が生じ、さらに私鉄の弱体化によりJRの独り勝ちの構図が成り立ってから少しずつJRの姿勢に変化が現われた。コストダウンタイプの223系2000・3000番台投入もその一つであった。223系を大量に投入して130km/h運転を行い、私鉄の追い上げを完封しようという思惑があったのだろうが、さらに利益を追求するために223系製造に関してコストダウンを図った。大量投入するために製造コストを低減させるのは企業としては当たり前の努力と言える。しかし、車両の製造コストの低減のみならず、運用の見直しなどによる保有両数の削減なども同時に行ったのがいけなかった。運用を減らすために、折り返し時間を短くしたり、予備車両を最小限に抑えたり、さらには余裕時分を最大限に削ったダイヤを組んだことが後々の大事故を起こす遠因になっているのは確かなところだろう。この時期のJR西日本は言わば“利用者本位の施策から企業本位への施策に転換した”ということが言える。この体質の変化には、少なくともJR西日本独り勝ちの構図を作ってしまった並行私鉄の体たらくも少なからず関係しているのではないかと思う。
2000年3月11日ダイヤ改正では、新快速の全面的な130km/h運転が開始された。この時用意された223系2000・3000番台は124両で、全てが網干電車区(現総合車両所)へ集中投入された。これにより223系は1000番台が92両、2000・3000番台が236両の体制となった。223系が新快速の運用を全面的に受け持つようになった。これまでアーバンネットワークの屋台骨を支えてきた221系が新快速から撤退することになった。221系は以降本線の快速を中心に、JR宝塚線やJR奈良線への転属が行われた。なお、この際221系新快速のサヨナラ運転などは一切行われていない。これまでの功績を考えればその類のイベントが行われてもよかったのではないかと思う。一ファンとしては残念なところだ。同改正では車両増備だけではなく、地上設備の改良も行われ、130km/h運転の区間は草津~西明石間から米原~姫路間に拡大された。これにより新快速の運転区間のほぼ全区間に渡って130km/h運転が行われた。所要時分の短縮も当然ながら行われた。京阪間はそれまでの29分から2分速い27分に短縮、阪神間においてはそれまでの21分から2分速い19分へと短縮された。また、大阪~姫路間は60分を切って57分運転となった。JR発足当初よりも停車駅が増えているにも関わらず所要時分が短縮されたということはそれだけ130km/h運転の効果が大きかったことと223系の加速力が221系よりも優れていることが大きいと言える。もっともこのようなダイヤ変更を繰り返して行き、無理なところでも所要時分を短縮したことが福知山線事故の遠因になっていることは言うまでもない。
新快速のスピードアップにより、それに合わせて内側線を走る快速・普通も緩急接続のタイミングを合わせるべくダイヤ改正が行われた。普通の待避時間を短くして三ノ宮での新快速との接続を行うため、快速が芦屋~東灘信号所間で外側線を走り、芦屋で普通の待避時間を短縮した。新快速の足並みに揃えるための苦肉の策と言える。このような無理をした施策を行うようになってから、ダイヤの乱れがより一層ひどくなってきたように思える。また、同改正では緩行の運転系統が整理され、これまで上下で行き先が異なっていたJR宝塚線直通系統の運転が、京都~西明石間、高槻~新三田間に固定されるようになった。この他、国鉄最後のダイヤ改正以来改変がなかった関西発着の九州ブルトレの再編が行われ、佐世保行きあかつきが廃止となり、あかつきは京都~門司間で彗星と併結運転となった。
2001年3月3日のダイヤ改正では新快速、快速、普通の運転に大きな変化はなく、北陸特急で大阪~青森間の特急白鳥が廃止され、683系増備によりサンダーバードが毎時1本の運転となった。サンダーバード増発によりスーパー雷鳥も姿を消し、雷鳥は原色の485系による列車が毎時1本運転されるのみとなった。なお、スーパー雷鳥編成は改正後、塗装変更などを行い、しらさぎに転用された。この後、地域間ではこまめなダイヤ改正が行われていたが、京阪神では大きな変化は2003年まで見られなかった。これまで毎年のように変化が見られた本線でこれだけ平穏無事だった時期は数少ないと言え、それだけ2000年3月11日ダイヤ改正後のダイヤは、本線としては完成度の高いものだったと思われる。ただ1つ書き加えるなら、この時期に予備車を投入したり、ダイヤの微調整を行っていれば、あの大惨事を引き起こすこともなかったのではないかと思われる。その点については残念極まりないところだ。2002年度末から2003年にかけて207系2000番台が増備された。これはJR京都線・JR宝塚線に残っていた103系を置き換えるための増備となった。これにより本線から103系が姿を消し、運転曲線は201系がベースになったが、大幅なスピードアップ等は行われていない。
2003年6月1日にはJR琵琶湖線を中心にダイヤ改正を行い、びわこライナーを特急びわこエクスプレスに格上げして、使用車両を485系から681・683系に変更した。また、関空特急はるか2往復を米原発着として、下りは朝、上りは夜の運転として、琵琶湖線から関空へのアクセスと通勤特急の役割を担わせた。
2003年12月1日のダイヤ改正では、芦屋駅への終日新快速停車を行い、朝ラッシュ時の芦屋での快速の新快速待避がなくなった。JR神戸線では朝ラッシュ時上りの快速を全て223系として130km/h運転を行うようになった。また、快速の西ノ宮(現西宮)への終日停車も実施した。また、207系2000番台56両、223系80両を投入して、内側線の最高速度を120km/hに引き上げた。
2004年3月13日のダイヤ改正では、九州新幹線新八代~鹿児島中央間開業に伴う夜行列車の運転区間縮小が行われ、寝台特急なはが新大阪~熊本間の運転となった。これ以外に大きな変化はなかった。2004年は10月16日に大きな改正を行い、この時本線では、223系を再度増備して、JR京都線・琵琶湖線を中心に朝夕ラッシュ時に新快速を増発した。これによりJR神戸線に続いてJR京都・琵琶湖線でも朝ラッシュ時に7~8分毎に新快速が運転され、夕方ラッシュ時にも大阪始発の新快速が3本増発された。夕方ラッシュ時の大阪始発の新快速のうち1本は湖西線永原行きとなっており、データイム以外では初めて湖西線直通の新快速が運転されるようになった。なお、朝ラッシュ時にも湖西線直通の新快速が登場した。快速にも223系が投入され、これにより一部ラッシュ時間帯などに残っていた113系が全て置き換えられ、快速は221系もしくは223系での運転に統一された。1日3往復残っている米原以東JR東海エリアの大垣まで乗り入れる快速にも221系、223系が使われるようになった。定期列車で221系、223系がJR東海エリアに乗り入れるのはこれが初めてとなった。なお、113系は京都以西では一旦姿を消したが、京都以東では京都始発のJR湖西線、JR草津線直通の電車が113系を使用しているためJR琵琶湖線内ではまだその姿が見られた。同改正ではJR宝塚線経由で運転されていた米子行き夜行急行だいせんも同改正で廃止された。